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池谷裕二:海馬 進化しすぎた脳 ゆらぐ脳 のうだま 単純な脳、複雑な私
長田典子:感性科学、共感覚
民族DNAの国別比率
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宇宙は約137億年前に誕生 |
日本人の進化の過程 :(地球上の全生物は38億年間進化を続けている)
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中国で霊長類最古の頭骨化石発見、霊長類アジア起源説が浮上
[2004年1月1日Yahoo]
中国湖南省の約5497万年前の地層から、ヒトやサルが属する現代型霊長類で最古の頭骨化石が見つかったと、中国科学院・古脊椎(せきつい)動物古人類学研究所の研究チームが1日付の英科学誌ネイチャーに発表した。 霊長類は起源が北米とされてきたが、アジアだったとの見方が浮上。 夜行性で果物が主食と考えられていた初期の霊長類は、昼間活動し、主に昆虫を食べていた可能性があるという。
従来見つかった初期霊長類の化石は断片的なものが多いが、この 現生人類、6万数千年前にアジアで急速に拡散 (読売新聞)- 2005年5月13日 アフリカで約20万年前に誕生した現生人類は、6万数千年前にインドからオーストラリアまで、インド洋に沿って一気に広がったとみられることが、英国などの研究チームが行ったアジア人の遺伝情報の比較分析でわかった。 現生人類のアジアでの足取りが詳しく明らかにされたのは初めてで、13日付の米科学誌サイエンスに発表される。 研究チームは、長く孤立していたために遺伝情報から祖先をたどるのが容易なマレーシアの先住民260人について、ミトコンドリアという細胞内器官の遺伝情報を新たに解読した。 これまでに解析されていたアジア人やオーストラリア先住民の遺伝情報と比較したところ、その違いから、マレーシア先住民は約6万年前以降にほかのアジア人の系統から枝分かれしていたことが判明した。 アフリカから旅立った現生人類はまず、紅海をわたりアジア方面に向かい、インドには約6万6000年前、オーストラリアには約6万3000年前にたどりつくなど、急速に広がった可能性が高いこともわかった。ヨーロッパに約4万年前にたどりついた現生人類は、アジアに出た現生人類の一部が枝分かれしていったという。 現生人類のアフリカからの旅立ちは一度きりで、その集団の規模は数百人程度だった可能性が指摘されている。時期は約8万5000年前よりも最近だと考えられているが、明確に突き止められていない。 |
ビール (エール & ラガー) スポーツ吹き矢 日本人の平均余命 錯覚の世界 写真化学修復 IT用語辞典e-Words 知恵の輪-ず マクロミル(Macromill)杉本哲哉 M3Mill |
中高年の記憶力増強:
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----------エピソード記憶
(過去の経験や出来事に関連した記憶
- 大人が得意) |
記憶力を高める9つの鉄則: |
水は宇宙からの贈物 :
地球は水の惑星とも言われているが
97% 以上が海水。 |
地球の表面積5.10億km2
(円 周 40,000km
半径6370km) のうち海洋は3.61億km2、 |
地球の温暖化が進むと南極やグリーンランドの大陸氷床(厚さ2000m以上)がとけ海面が |
ちなみに、海の平均水深は3795m(最深はマリアナ海溝
10,924m)で、陸地の平均高度は840m |
21世紀は爆発的な人口の増加、エネルギー・資源消費量の増大の加速度的な進行により |
ヒトゲノムの解読からポストゲノムへ: |
米国のセレラ・ジェノミクス社が2000
年4月6日、下院公聴会にて“(1999年9月に着手した)
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人間の遺伝子の個数は3万個前後
(26,383-31,778個)であることが明らかになったが、 |
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ポストゲノムの研究 |
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http://www.celera.com |
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米国NIH
(国立衛生研究所)のコリンズ博士の資料によると、 |
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2010
年代 : |
* 遺伝子診断が普及期に入る |
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* 遺伝情報を加味して開発された医薬品が普及し始める |
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* 遺伝子による差別を防ぐ法制度が米国で施行される |
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2020
年代 : |
* 糖尿病
,高血圧などの遺伝子治療薬の発売 |
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*がんを起こす問題分子を標的とた治療が可能に |
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* 精神や神経系の病気の診断改善 | ||||||||||||
2030
年代 : |
* 個人の体質に応じた病気の予防薬が普及 | |||||||||||
* 多くの病気関連遺伝子と環境とのかかわり解明 |
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* 人間の細胞の完全なコンピューターモデルの完成 |
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* 遺伝子利用技術への反対運動が活発化 |
山岡鉄舟 勝海舟 西郷隆盛 清川八郎 |
武術家の甲野善記氏によると、
明治以前の日本人は 「なんば」と呼ばれる「右手−右足」「左手−左足」を組にして歩く方法で歩いていたそうです。 飛脚の走り方も同様です。 武士が八相の構えから、左足前の状態で、右上から左下へ袈裟に刀を振りおろした時、自分の足を切ってしまうことになるからです。 |
----- "ひとりごと"より抜粋 -----
台湾には学生時代に
中国語の勉強の為? 何度か貧乏旅行をした(1968-69)。
その際“日本語家庭”育ちの台湾人の流しのオジサンより教わったシリトリ歌をまだ覚えている
(戦前の時代背景が垣間見える)
日本島国松の国 |
タンザニア(Tanzania) (2000年10月) 1985年よりは3年半のTanzania駐在となったが、 その頃のDar es Salaamはアフリカ型社会主義を続けていた為 市場に物がなく、まともなHotelもなく、 又、外国人が使えるレストランもなかった。 食材も外国より運び込み、自宅に発電機を取り付け、 自給自足の生活をするしか 一定の生活水準を維持する 方法はなかった。水の確保にも努力を要した。 象牙やマコンデの木彫は屋台で並べられていたが、 古着や時計との物物交換も可能だった。 生活環境は開放政策に転換後徐々によくなったが、 相変わらず治安が悪く 強盗等の日本人犠牲者も多く出た。 駐在員の子弟はInternational Schoolに通い、 又、日本人補習校もあった。 |
四国よりも広いセレンゲッティやゴロンゴロと言う動物保護区があり 四輪駆動車で 動物を探して走り回るのは別世界の出来事の様で 野生動物の姿や景色が今でも夢の中に出てくる。 ガイドの視力2.0はあたりまえで5.0という人もいて 数100メートル先の木の上の豹(Leopard)を見つけ案内してくれた。 アフリカ象はインド象と違い絶対に人には懐かない。 現地の人も象の集団を見ると通り過ぎるまで じっと 待っている。 ロッジのそばに来た象にバナナをあげようとした外国人が 象の鼻の一撃で即死したとの話も聞いた。 ライオンはメスの集団が狩りをしてオスはそれを横取りする。 ハーレムの中心にいるオスの役割は ハイエナ等を おいはらうこと以外は ハーレムを他のオスより守りぬくのが仕事。 サイ(rhinoceros) やチータ(cheetah)は探すのに苦労する。 シマウマ(zebra)やキリン(giraffe)はどこにでもいた。 カバ(hippopotamus)やフラミンゴ(flamingo)はいる場所が 決まっている。 トムソンガゼルやジャッカルも良く見かけた。 |
ロッジで夕食をとった際、カバ肉とシマウマ肉ステーキから 選ばせられ、料理が来たのでナイフとフォークを手に取った時 肉が目の前から消えた。 犯猿?のマントヒヒと一瞬目が合ったが逃げられた。 野外では鳥のモモ肉を口にくわえようとした時、 羽のようなもので顔をたたかれ 手からモモ肉が消えた。 これはコンドルに横取りされた為。鳥は目が良いと再確認。 |
現地のチェコ大使館の人と仲良くなり、 チェコグラスを大量に仕入れた。 それが縁でチェコ製トラックタイヤの輸入も手掛けた (300万米ドル)。 契約交渉の為プラハに出張した際、 この参事官の家に 招待された (当時は社会主義国だったので 外国人を家に招くことは稀だった)。 彼は古董品を集めていて手書きの独語で書かれた 年代物の聖書を見せてもらった。 熱帯熱マラリアには駐在員の半数以上かかった。 早期に薬を投与すれば治り、戦時中日本兵がかかった 3日熱マラリアと違い 再発することはないが、 手遅れとなると死ぬ。 又,近海魚を充分水洗いせずに刺身にしたものを 某日本人宅で食べ、 仮性コレラにかかり 水も受け付けなくなり脱水症で死にそうになった。 抗生物質と点滴で一命をとりとめたが、 これは“好塩菌”に対する知識が無かった為。 日本で Diving のライセンスを取った時も 教えてもらえなかったが、日本の近海魚もよく水で塩分を 流してから刺身にする必要がある。 |
タンガニーカ湖の辺りにチンパンジーの研究者が 常駐しているところがあった。 京大の霊長類研究所の人も来ていたが、 日本人はチンパンジーの顔を見分けられると 他の外国人研究者がおどろいていた。 花子とか太郎といった名をつけて生態を研究していた。 中波ラジオ放送局(ODA)の引渡し式で近くに行ったことがある。 涼しくて空気の良いところだったがワニが時々現れる由。 キリマンジェロ山に登ることも可能で、 カーター元大統領や日本の某映画俳優の親子が 登頂した。 現地のガイドが30−40kgの荷物を平気でかついで一緒に 登ってくれるので、杖一本で登山が出来るが、 高山病にかかったらすぐ下山すべき。 |
新種の病気(某商社海外店内で流行?)
鬱病 | 打つ病 |
練習のしすぎで‘玉を見ると打つ’という条件反射がついてしまう病気。 |
躁鬱病 manic-depressive psychosis |
そ-打つ病 |
上記打つ病が高じて、人のスイングに対してもあ-だこ-だそ-だと注文をつけるようになる病気、HDCP
10前後の人に多い。 |
エイズ AIDS | 老いず |
自分の実際の歳が判らなくなり、歳不相応なドライバーショットをしたり、夜遅くまで女遊びをしたりするようになる病気。 |
デング熱 dengue fever |
テング熱 |
ゴルフがうまくなって「90もたたいちゃったよ」なんて口を訊くようになる病気。人の事はど-でもエーデス蚊が媒介する。 |
梅毒 syphilis |
倍毒 |
すぐに後半のハーフを倍にしたがる病気。イン倍(淫売)がら移される事が多い。 |
脚気
beriberi |
賭っけ |
上記倍毒の人が必ずかかっている病気。 |
口内炎 | 来ない炎 |
スタート時間に間に合わなくなる病気。 |
ライ病 leprosy |
ライ病 | ショットの失敗をボールのライのせいにするようになる病気。「シャンクシャンク」とくしゃみをするのが病状。 |
腹膜炎peritonitis |
フケまくる炎 | テイーショットの時に右に押しだしてばかりになる病気。 |
脳卒中
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ノーしょっちゅう |
いつも上司の命令にノーと言うようになる病気。 |
肺病
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ハイ病 | いかなるときも上司の命令に逆らわない、「ノーしょっちゅう」と反対の症状が出る病気。人格が破壊されるおそれが有る。 |
アルツハイマー | アル中ハイマー | いずれも酒が原因の病気。命に関わる事もあるが、それより自身の名誉にかかわる事をしでかす可能性が高い。 |
子宮筋腫 | 至急禁酒 |
” |
脳内出血 | 能なし出欠 |
会議に出ても何の役にも立たずに、ただ参加しているだけで一言もしゃべらない。 |
結核
TB |
毛欠く |
多忙が原因で脱毛してしまう。
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痛風
gout |
TO WHO? | 海外駐在員が、自分が誰にレポートすべきなのか判らなくなる病気。 |
糖尿病 diabetes mellitus |
殿病 | 自分が世界で一番偉いと思いこむようになる、一種の精神病。 |
水虫 athlete’s foot |
見ず無視 |
書類をよく見ないでサインして廻すようになる病気。 |
十二指腸潰瘍
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自由に出張がしたいよう |
経費節減で出張ができなくなってアトレスがたまりかかる病気。 |
狂犬病 hydrophobia, rabies |
強権病 | 偉くなったとたんに「俺の言う事が聞けんのか!」と言う様になる病気。 |
虫歯 decayed tooth |
無視バカ | アホと話をしなくなる病気。 |
膠原病 collagen disease |
方言病 | 英語をしゃべると思わず語尾に‘ナア’とか‘ネ’がついたりする病気。強い伝染性を持つ。
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水庖瘡 chicken pox |
見ず暴走 | 雨の降り始めに多い病気。スピードメーターを見ずに暴走し車を大破させる。本人は意外と症状が軽い。 |
結膜炎 conjunctivitis |
ケツまくる宴 |
カラオケでついかかってしまう病気。翌日顔に赤く手の痕がつく症状が出る事がある。またケツを拝みすぎて拝ケツ症になる事もある。 |
リューマチ rheumatism |
緑(リュウ)待ち | 麻雀で中・白をポンしている相手に真っ向から勝負してしまう病気。ド近眼の人に多く30センチ以上向こうが見えない。 |
白内障 cataract |
吐かない症 | 酒を拒絶するようになる病気。たいてい夕方までには直る。 |
生理不順
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整理不純 |
机のまわりをちっとも片づけなくなる病気。 |
回文 はんしんはよわいわよはんしんは うついけんしはしんけいつう ははははがいたいがはははは じいさんててんさいじ いいおとことおいいい ないなわしのおかあかおのしわないな |
句読点に注意 ふたえにまげてくびにかけるじゅず しんだいしゃをてはい べんけいがなぎなたをもって おしょくじけんだいかんげい |
意味は? ままならない うすなさけ せつない おもはゆい じれったい なおざり おざなり |
百済る話 中国-雑記帳 輪廻転生/暁の寺 ひとりごと(バンコク) バンコク生活情報 CHANTY リンク集(タイ
武士道 〜 新渡戸稲造が残したもの〜 前浜佐知子
一章 序章
近年、国際化のなかで新渡戸稲造(1862〜1933)の「武士道」が注目されている。評論家の大宅壮一氏はこの新渡戸氏を「科学者、国際人、武士道的愛国者,実務家、教師、社会教育者、宗教的平和主義者」と評している。国際人、武士道的愛国者である新渡戸が書いた「武士道」は1900年代初めの国内外において、日本文化紹介の本としてどのような役割を果たしたのだろうか。
「武士道」は1899年(明治32)新渡戸38歳のとき、病気療養中のアメリカで書かれ、翌1900年出版された。儒教、仏教,神道の三つの思想が混合し江戸時代の封建制度のもとで完成された武士道を日本の精神文化として海外へ向けて紹介するため書かれたものである。新渡戸は西洋的合理主義の横行した明治期に、日本古来の精神の美しさをもって変化する時代に適応し、日本がさらに向上していくことを願った。同じようにこの時代には福沢諭吉、西郷隆盛などが存在し、”明治武士道”という指針を打ち出し日本人の精神までもが西洋化することを危惧した。この点、物質的豊かさに満たされた反面、心の問題が取り上げられ、精神的価値が求められている現代人が学ぶべきものも多いだろう。
「武士道」が海外の人々に広く読まれ、日本の文化を知らしめることに大きく貢献したことは、当時の米大統領セオドア・ルーズベルトが大変感銘をうけ、大量に買って、友人に勧めたという話からうかがえる。しかし、国際的緊張がしだいに高まる中で、日本の精神文化を公平に正しく、しかも国内外双方に伝えることができたとはいえない。「武士道」には人間みな同じであり共通面の方が重要であるという新渡戸本来の普遍主義的主張が十分に反映されていない。その理由として、英語に長けている一方、日本文化歴史などに関して知識が不足している点、また国際社会で活躍しているだけに西洋のプラス、マイナス両面を分かっている反面日本国民の精神的状況を把握できていなかった点が挙げられる。
しかも1899年といえば、日清戦争の4年後、日露戦争の5年前である。新渡戸の思惑とは違って、「武士道」はときには国内の軍国主義者に国家のための道徳として用いられ、外国では日本軍の行動を理解するための本として扱われる。
新渡戸は文化に優劣はないと世界平和を望み、愛国心との間で思い悩んだといわれる。本来は普遍主義者の新渡戸が日本人の精神文化を尊重し世界に向けて書いた「武士道」が、国際化、物質的合理主義の現代に残しているものとは何だろうか。
二章 新渡戸稲造の生涯と「武士道」
新渡戸が1833(明治16)年、東京大学の面接試験のとき「太平洋の架け橋になりたい」と答えたことは有名である。これは主専攻は経済学、副専攻として英文学という一見無関係な二つの分野を組み合わせる理由について述べたものであり、西洋の思想を東洋に、また東洋の思想を西洋に伝える手段になりたいと説明を加えている。この志が日米交換教授としての渡米、米各地での講演活動、国際連盟事務次長としての活躍などとなっていく。「武士道」を執筆したこともその志の結果であるが、その背景には、武士の家系に生まれたこと、英語に優れていたこと、キリスト教徒であったことが挙げられる。これらが海外に向けて日本文化紹介の本を書くことを可能にしたと言える一方、「武士道」が欠陥、誤解、間違いを含んだ原因となっている。
まず、新渡戸の生涯を年表に整理してみる。
1862年 岩手県盛岡市に生まれる
1875年 東京英語学校に入学
1877年 札幌農学校に第二期生として入学
1881年 開拓使御用掛勧業課勤務となる
1883年 東京大学選科生となる
1884年 東京大学退校
アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学に入学
1887年 ドイツのボン大学にて農政、農業経営学を勉強
1891年 メリー・エルキントン嬢と結婚
帰国し、札幌農学校教授となる
1899年 渡米中のアメリカで「武士道」執筆
1900年 アメリカで出版
1901年 後藤新平に誘われ、台湾でサトウキビ栽培の指導
1903年 京都帝国大学法科大学教授となる
1906年 第一高等学校(東京大学教養学部)校長兼
東京帝国大学農科大学教授となる
1911年 第一回日米交換教授として渡米、各地の大学で
講演にあたる
1918年 東京女子大学学長となる
1920年 国際連盟事務次長に就任
1926年 国際連盟事務次長辞任
1932年 満州事変における日本の立場を説明するため渡米
各地で講演する
1933年 10月16日 太平洋会議に出席しその後 病状が悪化、カナダ滞在中に客死
新渡戸稲造は1862(文久2)年岩手県盛岡市に生まれた。南部藩士の家系で、武士の子であった。このことが武士という階級的偏見に偏った見解にあらわれてくる。新渡戸は、武士道が広く一般庶民にまで行き渡ったと述べている。そしてそれは、武士が社会の支配階級であた関係上、武士の感化であるという。だが、幕末に来日したイギリス外交官オルコックの「The Capital Of Tycoon」で彼が感嘆の念を向けているのは、庶民の間の工芸品のすばらしさ、耕作技術の高さなど庶民文化に関することである。親日家モースは、貧民であっても表情に残忍さや悪意が感じられないことに驚き、貧しい家でもどこか美しいもの、興味あるものが見られることに感心している。だが「武士道 第15章 武士道の感化の」中の”過去の日本は武士の賜物である”という言葉のように、新渡戸は庶民は武士の作り出す文化のおこぼれをもらう程度であると考えている。
また、鎌倉時代から江戸時代までを通して武士をひとまとめにしており、歴史意識に欠けている。戦国時代の下克上の時代を生きた武士と徳川幕府のもとに平和が続いた時代の武士では、当然行動様式や考え方に違いがあるはずだが、そういったことには触れられていない。全体を通して、武士としての倫理観、道徳意識の理想を中心に述べており、武士の実際の生活、現実的な考え方はの言及がなされていないため、実際の武士の姿を完全に伝えることはできない。
新渡戸は札幌農学校時代にキリスト教徒となり、後に妻の影響でクエーカー教徒となった。プロテスタントの精神は、質素倹約,自律、勤勉、正直をモットーとする。そのため日本人であってもおおいに共感できたのである。しかし、宣教師的見方については完全な異教徒である大半の日本人のように一笑に付してすますことができなかった。宣教師的見方というのは、世界をキリスト教国と異教国とに二分し、キリスト教国の最善の部分と異教国の最悪の部分だけを捉え、異教国を劣っているとみる見方のことである。外国人宣教師に洗礼を受けた新渡戸や内村鑑三たちは、日本人としてのプライドを傷つけるこの見方から解放されるのに大変苦労したという。また、この時代多くの日本人は、西洋文明の必要性を痛感すると同時に、自国の独立に危機感を抱き痛烈な愛国心を持っていた。この日本国民としてのプライド、劣等感から脱したいという心情が普遍主義的に人間に東西の区別はないという主旨から外れ、「武士道」が日本人の優越性を主張するものとなった背景である。
「武士道 第16章 武士道はなお生くるか」では日本にいる宣教師が日本史に無知なことを批判している。「武士道 第14章 婦人の教育および地位」では、日本人の結婚観がキリスト教的結婚観より進んでいるように思われるとはっきりと述べている。このように明らかに日本の精神文化を特別に優れたものであると位置づけている。これは強烈な愛国心からくるものであるが、新渡戸が目指した東西の文化に優劣はないという主張とは違っている。
英語の才能に優れ、13歳で東京英語学校(今の高等学校の前身)へ入った頃には、数学,地理、歴史などすべてを英語で勉強していた。”20代の頃には英語の本を読むほうが日本の本を読むより、はるかに易しいくらいであった”と新渡戸も語っている。また、「読書と人生」という本の中で”和漢の方は余りよく知らないから”とか”それも日本の文学に精通しない我が輩にはなんとも言い兼ねるが”と述べている。しかしこの日本についての無知が「武士道」にも現れている。そもそも”武士道”という言葉は自身の造語であると思っていたが執筆後30年程経ってからそれ以前もこの言葉が使われていたことを認めたのである。このことは「平民道」に”僕は度々此文字の出所を尋ねられたけれども、実は始めて用いた時分には何の先例にも拠った訳ではなかった”「帰雁の蘆」に”最も侍の中に行はれたから武士道と名を付けてみた”と書いていることから分かる。そして約30年後に「内観外望」の中で、その頃武士道といふ言葉はないわけではなかったが、世の中ではあまり使われていなかったと述べている。1894年3月23日の「福音新報」には植村正久が”基督教と武士道”という文章を発表しているし、1888年に死んだ山岡鉄舟が”武士道”という言葉を使って武士道について講義していたことは勝部真長 編「山岡鉄舟口述 勝海舟評論 武士道」に明記してある。加えて、岩波文庫出版の「武士道 矢内原忠雄 訳」の”人名索引 及び 註”には多くの西洋の思想家の名前や著作が並ぶ中、山鹿素行、葉隠、その他諸大名の法度や家訓類がないのである。武士道を論じようとするにあたって必読の参考文献であるこれらを参照した形跡がみられない。
新渡戸は「武士道」執筆に至った理由を第一版序において、ベルギーの法学者の”宗教教育なしでどうやって日本では道徳教育をしているのかという質問に触発されて考えた結果武士道をもって日本人の道徳心が説明可能だと考えたからだと述べている。だが、このベルギーの学者の質問に武士道をもって答えようとしたとき、新渡戸の日本文化、歴史に対する知識は十分ではなかったのだ。
日本や中国の歴史的事実に関しても新渡戸の英文の著作の中には初歩的な間違いがみられる。いくつか例を出してみる。「Japanese Traits and Foreign Influences」では、唐は618年に始まったのに4世紀の中国が唐王朝の支配下にあったと記述、仏教の伝来についても4世紀といったり、7世紀といったりしている。(仏教公伝は538年か553年といわれている。)「Japan」では鎌倉時代の成立年を1185年や1192年でなく、11世紀のことと思いこんでいる。
新渡戸は「武士道」執筆にあたり、日本についての必要な知識を補うために勉強したと考えられるが、やはりそれはにわか勉強であったと思われる。海外の読者は日本人が自国について書いたのだから正しいと信じ込んでいたことが、「武士道 第八版」に付録としてついている初版にに対する感想や批評から分かる。しかし、新渡戸は日本人に対しては、1912年発表の「乃木大将の殉死を評す」のなかで、わたしには武士道の奥義など分からないと述べている。歴史的事実に関する記述の間違いは読者に誤った知識を与え、正しい日本理解の障害となるのは明白である。
このように行きすぎた愛国心、日本に対する無知、武士階級への偏見がありのままの日本文化を正しく海外へ紹介するための「武士道」としての欠陥となっている。
第三章 「武士道」に対する評価の変化
当時の評価は初版本が出版された直後と日露戦争後では大きく異なる。
初版本がどのように読まれたかは第八版の付録にある初版への書評から推測できる。始めに気づくことは、「武士道」が好意的に高く評価されていることである。”新渡戸氏は彼の扱う題目についての豊富な知識を持って書いている”(The Christian Register ,19 July 1900)”新渡戸氏のように自国の歴史と文学にすみずみまで通じ、さらに、それ以上に重要なことだが、自国民の精神がしみ込んでいる日本人の著者だけが日本を欧米の読書に説明することができるのである”(The American ,29 January 1900)この時点ではまだ日清戦争の勝利と武士道の関連についてコメントしているものはない。
もっともアジアの中でなぜ日本だけが近代化において成功を収めることができたのかを武士や武士道に言及している書評はある。1900年2月24日の The Sunday School Times の「The Soul of Japan」と題する書評には”これまでこの本ほど日本人の心を明らかにした本はない。それは他のアジア諸国の有しない、あのユニークな人物、すなわち、武士ないし侍、を日本に与えたさまざまな要素ー遺伝、環境、教育宗教、訓練、経験ーを扱っている。日本がアジアには見られないこのユニークな武士ないし侍を有したということが、他の外面的ないかなることにもまして、日本と過去半世紀における日本の開花を説明するのである”とある。新渡戸自身も「武士道 第16章 武士道はなお生くるか」で武士道が日本のめざましい近代化を理解するカギであるというように書いている。
このように初版ではまだ軍事的な関心事と結びつけるような書評はない。だが、1904年以降の書評には日露戦争の影響で軍事的関心といった見方が入ってくる。1911年9月1日のニューヨークタイムズに第一回日米交換教授として訪米する新渡戸氏の紹介が載っている。”新渡戸稲造教授は西洋においていかなるその種の著作にも勝るセンセーションをひきおこした日本についての、もっと言えば日本国民の有する理想についての、書物の著者である。その本の題は『武士道、日本の魂』で、それは西洋では日露戦争の時にはじめて知られるようになった。「国民の魂」(The Soul of a Nation)という題のもとにロンドンタイムズの軍事特派員は「武士道」についていくつかの記事を書いた。それらの記事の材料は新渡戸教授の本から取られたのである。・・・・新渡戸教授はキリスト者であるが、「武士道の理想について、愛と共感を込めて書いている。そして、彼の小さな本はあるいは欧米人に日本軍兵士の性格と最近の戦争(日露戦争)における日本の勝利の真の理由を明らかにするにおいて外のどんなものよりも力があったと言えるかも知れない”また1904年10月4日の「The times」に載った”The Soul of a Nation ”には”この極東での戦争(日露戦争)をめぐるさまざまな注目すべき事項のうち、何にもまして驚くべきは日本軍の勇気と行動である。我々は、ほとんどしぶしぶ嫌々ながらも一国民全体の全行動を支配し、単にその中の一階級だけでなく、最上層から最下層に至る全国民を歴史上あるいは伝説上の最も有名な話にもひけをとらないような行為へ駆り立てることが出来るように見える道徳的な力の存在を認めざるを得ない。我々はこの力が何であるか、どこから来るのか、それが何を意味するのかを知りたい”とある。この軍事特派員はその力が武士道によるものだと考えている。日露戦争での日本軍の勝利はまさに日本で培われた武士道による勇気と行動、道徳的力であると結びつけている。
そしてこの「武士道」を軍事的要素として捉える動きは海外だけでなく、日本でも見られる。新渡戸の「武士道」出版後、日本で武士道関連の本が次々と出版される。”第9章 軍人勅諭と武士道””第10章 軍隊に於ける精神教育”という章をいれた 川龍夫の「日本武士道史」(1907年)、当時の陸軍刑法第七十三条を論じた河口秋次の「日本武士道論」(1904年)などがある。新渡戸が海外へ向けて書いた日本紹介の本に、軍事的な日本人の精神教育に反映させようとした意図がなかったことは「偉人群像」に”日本人は承知していることのみであるから、日本人に読んでもらう必要がない”と述べているように「武士道」が国内でどのような読まれ方をするか予想していないとこが分かる。この点、新渡戸は当時の日本人の精神的状況を把握でくていなかったと言える。このように「武士道」は日本の近代戦のなかで新渡戸の意図とは違った影響を与えていった。
第4章 日本文化紹介者としての新渡戸稲造
現代で「武士道」、新渡戸稲造が注目されているのはなぜか。国際人、武士道的愛国者として生きた日本文化紹介者の新渡戸の姿が、国際化のなかで生きる私たちに何らかの示唆を与えてくれるからだ。「武士道」が生まれたのも”太平洋の架け橋になりたいという志の結果である。
まず、現代の評論家たちは”かくあるべし”という理想の姿に近づくため自分を律するという行動美学が、物質的に満たされ精神的に殺伐とした社会、心の豊かさが問われている現代で見直されるべきだという。岬龍一郎氏は「新渡戸稲造 美しき日本人」の中で、新渡戸と並んで福沢諭吉、西郷隆盛らを例に出している。彼らは、西洋文明の流入に伴う西洋的合理主義によって日本人の精神までが失われていくことを危惧し、正義、誠意、人徳などを重んじる武士道をもって日本の発展を目指すことを訴えた。明治維新による変革と戦後のGHQによる民主化への改革を照らし合わせ、体制の変革に伴い継承すべき過去の良いところまで変わってしまうことを嘆いている。国民皆兵のもと”お国のために”と行きすぎた愛国心を駆り立て、無謀な戦争へと突き進んだ歴史から、現代で愛国心を唱えれば軍国主義者などと言われてしまう。だが、国際化の時代に国の独自性を保ちつつ世界の国々のなかで発展していくためには、ある程度の愛国心、日本人としてのアイデンティティが必要である。そのため、国際人であり、愛国者であった新渡戸に学ぼうという動きがみられるのだ。
では、新渡戸が日本文化紹介者として理想としたものは何だったのか。それは、人間はみな同じであり、東西の文化に優劣はなく、むしろ共通面を大事にしていこうという普遍主義的なものだった。
幕末から明治にかけて渡欧、渡米した岩倉使節団や新渡戸の札幌農学校時代の同級生、内村鑑三などは、それまで抱いていた理想的な欧米のイメージとのギャップに幻滅し日本の良さを改めて実感したことが、泉三郎「堂々たる日本人」より分かる。しかし、新渡戸はそれだけにとどまらず、そこから共通点を見いだし、双方の長所を学びあい、互いの認識の差を縮め理解し合い、世界平和を目指そうとした。
新渡戸の日米での講演で聴衆が日本人かアメリカ人かに応じて話のやり方を変えたという批評がある。聴衆に応じ話の内容ややり方を変えるというのは、多くの場合当然と言えることである。新渡戸の場合はアメリカでは日本をほめ、、日本ではアメリカをほめるというやり方であった。しかし、新渡戸はあることをアメリカでは日本の長所としてほめ、日本では短所として批評するといった二重の基準を適用していたと考えられる。森戸辰男が「教育者としての新渡戸先生」で”「武士道」の著者が吾々に対してこの武士道を理想的なものとして鼓吹せず、むしろ、その欠陥とも思われる人格、教養、社交性等を強調された”と述べていることからも分かる。「武士道」初版への序のなかで、欧米人の日本文化紹介者に比べると外国語である英語で書くというハンディを嘆きながらも”私が彼らに比べて有利な点は、ただこれらの卓越した著者達がせいぜい弁護人や代理人であるのに対して私は自身被告の態度をとれることだ”といっている。このことからも、武士道の欠陥などは軽く扱い、長所をより強調して欧米人に伝えようとしたことがうかがえる。日本が外国から軽視されることなく対等にやり合うため、日本、日本人を外国によく映らせるためにこのような方法をとったと考えられる。日本に対する外国人の視線や評価を気にする余り、第二章で述べた日本びいきの欠陥を生み、普遍主義者の新渡戸らしくない文章になってしまった。国際人と評される新渡戸は、国際人ゆえに強い愛国心を持ち、国の発展と世界平和のため、太平洋の架け橋となるため日本と外国が相互に良い影響を与えあう関係を目指したのだ。
新渡戸は1933年、死の直前のカナダでの講演の最後を次のように締めくくっている。”異なった国民相互の個人的接触こそ、悩み多き世界に測り知れぬ効果をもたらすものではないだろうか。世界中より参じた国民の親密な接触によって、やがて感情ではなく理性が、利己ではなく正義が、人類並びに国家の裁定たる日が来るであろうことを、私がここに期待するのは,余りに大きな望みであろうか”。この”個人的接触”というところは。メリー・エルキントンとの国際結婚や学者としての海外での恩師や同志との出会いにあたる。また、感情ではなく理性が、利己ではなく正義が”というのは「武士道」で利を捨て義,忠,孝などを尽くした武士の姿に重ねることができる。
結論
日本文化紹介書としての「武士道」には第二章で述べたように欠陥もあるため誤解を含んだ読み方をされているところも多い。そのうえ、武士は封建体制、階級社会のもとに培われたものであるため、現在の日本にそのままの形で適用することは難しい。また産業、経済などあらゆる分野で進む合理化に適応し、効率や利便性を追求しなければ、今後の大きな発展も望めない。
だが、西洋の文明が日本に入ってくるばかりで、日本の文化や日本人の性質について世界の認識がまで幼稚であった時代に、日本から自国について紹介する著書を発したということには大きな意義がある。日本が西洋を受け入れ取り入れるだけでなく、日本からも発信するという相互の関係を築こうとしたのである。「武士道」が歴史的事実、階級的偏見、公平で普遍的見方などの面で欠陥を抱えた著書であっても、日本と外国の双方が相互に文化などについて発信しよりよい関係を築くことを目指す過程で、日本文化紹介者としての新渡戸稲造によって書かれた日本文化紹介書なのである。
参考文献
・武士道 新渡戸稲造 著 矢内原忠雄 訳
・「太平洋の橋」としての新渡戸稲造 太田雄三
・新渡戸稲造 美しき日本人 岬龍一郎
・堂々たる日本人 泉三郎
・葉隠れの武士道 山本博文
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五輪の書 宮本武蔵
http://www.webtsc.com/musashi/
http://www.jmca.net/booky/takeshita/ryosyo5.html
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『通訳・翻訳ジャーナル』 2002年6月号 <日本通訳学会特別企画> 通訳の世界を広げる
現代通詞考 第14回 通訳の今・昔 (1/2)
鳥飼玖美子 立教大学大学院 異文化コミュニケーション研究科教授 日本通訳学会 副会長
通詞の時代
日本における通訳の歴史は古く、江戸時代に既に「通詞」が制度として存在していました。江戸幕府は長崎を直轄地として長崎奉行をおきましたが、その下に通訳・外交・貿易の実務を担当する地役人がおかれ、それが「唐通事」「阿蘭陀通詞」などと呼ばれました。「唐通事」は中国語を専門にする通訳者であり、「阿蘭陀通詞」はオランダ語通訳者です。鎖国後もしばらくの間はポルトガル語が使用され「南蛮通詞」が活躍していたようですが、ポルトガル人が追放され、オランダ商館が平戸から長崎の出島に移されて鎖国体制が確立するのに従い、オランダ語通訳の必要性が大きくなり、阿蘭陀通詞の育成・組織化へ至りました。
ここで重要なことがいくつかあります。ひとつは、当時の通訳者は、長崎で採用され長崎奉行の管轄下で職務についていた地方公務員であったこと。次に、職務内容が通訳業務にとどまらず、翻訳は無論のこと、外国船来航にあたっての業務、貿易に関わる業務など多岐にわたり、中央から赴任する長崎奉行の外交・通商上の諮問を受けたりもしたこと。さらに特筆すべきは、公的な職種として階級が設けられ、レベルごとの定員が決まっており、昇進試験もあったこと。そして通詞をつとめる家が定められ、代々、男子がその職を継ぐ世襲制度をとっていたことです。1説によれば、唐通事だけでも70数家あり、10席程度の地位をめざしました。元禄の頃、正規の阿蘭陀通詞は大通詞が4名、小通詞4名、稽古通詞若干名というのが基本で、この他にオランダ人の貿易業務に付き添って仕事をしていた人達が数十名から百名近くもおり、仕事を取り合って訴訟まで起した、と言いますから、熾烈な競争であったことがうかがわれます。
正規の通詞が地方公務員であったことは、通訳の規範を考える上で見逃せません。現代の通訳倫理は公平を旨とし、中立性と守秘義務は当然のことと考えられています。しかし、この常識は長崎通詞には通用しないことになります。彼らが職務上問われるのは、地役人として長崎奉行、ひいては江戸幕府への忠誠であったと言えます。中立ではなく、あくまで幕府の地方役人としての立場で通訳を行い、それが幕府にとって必要なことなら秘密保持にもこだわらないことになります。
好例が、シーボルト事件で責任を問われ重罪に処された何名かの阿蘭陀通詞です。禁制品入手の交渉を通訳したかどで寒冷地に流刑になり、有能で将来を嘱望されていた通詞が、何年もしないうちに命を失います。現代の感覚で言えば、「仕事で通訳をしただけなのに、ひどい」と思いますが、シーボルトのスパイもどきの行為を止めもせず、幕府に通報もせず、かえって協力した、とあっては厳罰に値することである、と考えられたのでしょう。
下級公務員であった、ということは、通詞自らの判断で事を決してはならないわけで、常に上司である町年寄、ひいては奉行の指示に従うことになります。堀辰之助という幕末の通詞は、良かれと思った咄嗟の判断が裏目に出て処罰の対象になったりしています。この人は通詞の名家出身ですが、当時の通詞は必要に応じてオランダ語以外の言語も習得することが職務に入っていた為、急に英語習得を命じられ苦労したようです。どうやら話すことよりも辞書編纂などの仕事で力量を発揮するタイプだったようで、悩みつつ通訳の仕事をする様子から通詞の辛さがうかがわれます。
現代の通訳者
現代的な通訳業について語る上で、国際会議の増加と、それに伴う会議通訳者の誕生は重要なポイントになります。同時通訳が始まったのは第二次大戦後のニュールンベルグ裁判においてであり、日本では戦後、米国大使館で通訳をつとめた西山千氏が独自に同時通訳方式を考案したり、米国国務省で訓練を受け日本からの視察団の同行通訳をつとめたグループが帰国後、サイマルという会社を設立したり、ということがその始まりとなります。
現代の通訳者は、世襲制度はとっていませんし、地方公務員ではなくフリーランスが主です。ランクについても、通訳検定の等級か、通訳派遣会社が価格ランキングを設けている程度で、定員などはありません。通訳以外の業務が入るというのも、企業内通訳の場合はあり得るでしょうが、どちらかと言えば、放送通訳や法廷通訳など各種の通訳業に特化しつつあります。
通訳倫理については、会議通訳を含め一般的に「中立」「守秘義務」が基本です。オーストラリアなど多民族社会でのコミュニテイー通訳においても、厳密な規範が定められています。しかし、最近になって、たとえば移民という少数グループの通訳をする際に、単純に「中立」を保つことで良いのか、という疑問が出てきています。通訳者が「中立」を保つことで、結果として「権力者」の側に立つことになり、マイノリテイーの権利を擁護できないのではないか、という反省です。又、「中立」であることは、黒子に徹し、透明な存在であることを意味しますが、通訳者が介入して解説を加えることを回避することが果たして真のサービスになるのか、という問いも出てきています。文化的解説を適宜加える「文化の仲介者」としての役割まで責任範囲に入れるべきかどうか、という議論です。制度としての規範が確立していた阿蘭陀通詞時代と異なり、これからの通訳者は難しい判断を迫られそうです。
ちなみに日本では、「コミュニテイ通訳」という職種は確立されていません。在日外国人を対象にした通訳サービスを各自治体が、「ボランテイア通訳」「善意通訳」を募ることにより、無償で実施するようになっています。しかし海外の状況を見ると、「コミュニテイ通訳」の規範と責任には厳しいものがあり、素人の無料サービスに頼るのではなく、本来はプロフェッショナルが行うべきことだと考えます。
通訳者への理解
同時通訳者の存在が一般的に知られるようになったのは、1969年のアポロ宇宙中継でしょう。その後の湾岸戦争で一躍知られるようになった放送通訳と異なり、人類初の月着陸の際は、各局のテレビ画面にヘッドホンを装着した同時通訳者の姿が登場し、それでなくても宇宙からの交信を聞こうとテレビに釘付けになっていた人びとに対するインパクトは大きいものでした。
しかし、このことは通訳という仕事が必ずしも正確に理解されたことにはなりませんでした。宇宙からの声を同時通訳する姿が「神業」であるかのような印象を植え付け、普通の人間にはできないことをやる不思議な人たち、というイメージを与えることになった感があります。一方で、1970年の大阪万博などで大量に通訳者が必要とされたことから、学生アルバイトの通訳者がおおぜい狩り出されました。結果として何らかの形で通訳実務を体験した層が広範囲にわたり、「通訳」というものが身近になったと同時に、英語が出来れば誰でも簡単にできる仕事としての通訳観も広まりました。通訳を必要とする状況にあっても、「同時通訳ならともかく、普通の通訳なら、あの人で十分出来る」と周囲にいる海外帰国子女や留学経験者などに気楽に依頼する風潮が生まれました。通訳は同時であれ逐次であれ、言語と文化に関する専門性が不可欠であることへの認識が欠如したまま現在に至っている、というのが実情です。
この点に関しては、次回に詳しく論じたいと思います。
[執筆者プロフィール]
立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科教授(研究科委員長)。上智大学外国語学部卒業。コロンビア大学大学院修士課程修了。会議通訳者を経て、1997年より立教大学教授、2002年より現職。 NHKテレビ「英会話」講師。国語審議会委員、観光政策審議会委員等を経て、日本ユネスコ国内委員会委員、国立国語研究所評議員。日本通訳学会・副会長。日本翻訳家連盟理事。著書『異文化をこえる英語』(丸善ライブラリー)、『歴史を変えた誤訳』(新潮OH文庫)『プロ英語入門』(講談社インターナショナル)、『TOEFL・TOEICと日本人の英語力―資格主義から実力主義へ』(講談社現代新書)など。 http://www.cl.aoyama.ac.jp/~someya/10-JAIS/TsuHonJournal/torikai(No_14).html
堀辰之助 1848(嘉永1)アメリカの捕鯨船員マクドナルドから英語を学び、'54(安政1)ペリー再来航の際に小通詞として徴用され、応接掛林大学頭をたすけて活躍。のちに下田奉行付の通詞に任ぜられたが罪を得て入牢するが才能をかわれて出牢を許され、蕃書調所対訳辞書編輯主任、翌年同所筆記方を兼任。「官板バタビヤ新聞」を発売させた。同年、日本初となる本格的な英和辞書「英和対訳袖珍辞書」を発行。のち開成所教授となり、維新後は開拓使大主典に任ぜられた。 http://www.jttk.zaq.ne.jp/yukonoheya/books%20yoshimura%20akira.htm
オタクは“国の宝”?MSNニュース 21/09/04 「otaku」はいまや、「shogun」「karate」「sushi」と並んで世界に通用する日本語だ。かつては「暗い」と同じ意味で、否定的に使われたが、そのイメージも変わってきた。また、オタクは重要な存在として注目されるようになっている。野村総合研究所(NRI)がこのほどまとめた、国内のマニア消費者(オタク)主要4分野の市場規模は約2600億円。なんと、デジタルカメラのそれを上回るのだという。 280万人のオタクパワー 主要4分野とは、「アニメ」「アイドル」「コミック」「ゲーム」を言う。これら4分野の市場規模を合わせると約2兆3000億円だが、そのうち約2600億円が「オタク市場」にあたるという。算出の方法は、オタク(特定の趣味分野に時間や所得をかける人たち)と言えるマニア消費者の数を推計した。 例えば、アニメはタイトルあたりDVD売上枚数、アイドルの場合はコンサート動員数やCD初出売上とファンクラブの会員数、コミックは同人誌販売会の参加者数などを基にはじき出した。 その結果、4分野を支えるマニア消費層の割合は金額ベースで約11%、2600億円とみられるという。人口にして約280万人に達する。 分野別にみると、アニメが20万人(市場規模200億円)、アイドル80万人(同600億円)、コミック100万人 (同1000億円)、ゲーム80万人(同780億円)。実際には複数の分野にまたがるマルチなオタクも多い。 NRIが描く定義も興味深い。「アニメマニア」は「アニメの視聴を日課とし、15歳〜40代までで男性が中心」、「アイドルマニア」は「特定のタレントに強いあこがれや興味を持ち、男女別に主に形成。 『現場系』と『コレクター系』がある」、「コミックマニア」は「同人誌即売会に参加、同人誌を執筆する層。 少年系、少女系、アダルト系などジャンルが細分化」といった感じだ。 |
高血圧 - 血管に瑕 ー 動脈硬化 ー 脳梗塞 (マクロファージ + コレステロール)
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猿人:600万年前 土器、陶器、磁器
大腰筋、骨抜走法 |
スマトラ島沖で、2004年12月26日午前8時(日本時間同10時)ごろ、
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