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<ベトナム英雄>ファン・ボイ・チャウの書簡発見 成田山霊光館で見つかったファン・ボイ・チャウの柏原文太郎宛ての書簡=千葉県成田市で、金子淳撮影 書簡は元衆院議員・柏原文太郎(1869〜1936年)宛て。柏原家の文書などを保管する博物館「成田山霊光館」(千葉県成田市)から見つかった。中国・杭州から出され、消印は1924年。 漢文で「仏治安警察に察知され、困難に直面している。監視を避け、(革命)活動の策を再び練りたい」という内容。「木堂(犬養の号)先生への手紙を同封した」と記され、犬養と親交があったこともうかがえる。 チャウが中国国内で抗仏団体「越南光復会」を組織してから100年。チャウの再評価につながる新資料だ。早大大学院の白石昌也教授は「日越両国にとり貴重な資料」と話している。【金子淳】 ◇ファン・ボイ・チャウ 欧米の列強に対抗していた日本に注目。ベトナム青年を日本に留学させ、抗仏活動を担う人材を養成する「東遊運動」を進めた。日本がフランスのベトナム占領を容認した日仏協約(1907年)後に日本を追放され、中国で革命運動を続けた。上海で仏当局に逮捕され、ベトナムで軟禁中に死去した。同国では教科書の表紙にもなっている。 |
(2000年10月) 1. Vietnam に入ったのは1991年2月にホーチミン市(サイゴン)に行ったのが最初。その後は周辺国に駐在していながらTimingが合わず1996年にCambodiaより入国しただけ。なぜかまだHanoiに行ったことがない。 2. フランスによるインドシナ支配が始まって後,ゴムのプランテーションの労働者として多くのVietnam人がCambodiaに移住させられ,更にフランスによるCambodia間接統治政策で,下級官吏などにVietnam人を雇用した為Cambodia人の反ベトナム感情は今も根強くある。 3. 1975年のサイゴン陥落以前のVietnam駐在員は商売の相手が華僑が多かった為か広東語は覚えてもVietnam語を話せる人は少なかった由。 4. 北ベトナムには雲南省出身の華僑も多かったが,特に1979年の中越戦争後少なくなっている。 5. フランスは約100年前にHanoiより昆明迄鉄道を敷いたが,当時の軍需物資たる雲南省の錫などを |
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ベトナム人にはなぜ「グエン」が多いか?
言葉の散歩道より抜粋
私が大学生だったころ、テレビは連日ベトナム戦争の戦局を報道していた。そのころの記憶のある人は、かなりの数のベトナム人の名前を覚えているだろう。 とくに「グエン」という姓が多かったことが印象に残っているはずである。これは、朝鮮半島に「キム(金)」という姓が多いのと同じことである。日本ではあまり知られていないが、ベトナムは東南アジアで唯一の漢字文化圏の国である。漢字文化圏と言うことは、箸で食事をし、儒教の影響が強い文化であるということでもある。そして、ベトナムの固有名詞(人名、地名)が朝鮮同様漢語であるという点では、ベトナムは日本以上に漢字文化圏の国だということができる。 ベトナム語の語彙には、日本語や朝鮮語と同じく、固有語をしのぐほどの漢語がある。 「日本」が漢語であるのと同様、「ベトナム」という国名自体漢語であり、「越南」と書く。首都のハノイは「河内」、最大の都市「ホーチミン」は「胡志明」という人名に由来し、その旧名「サイゴン」も「西貢」と書く。ベトナム人の姓は種類が少ない。これは、朝鮮同様、もともと種類の少ない中国姓の中から一種の好みでさらに少数の姓を選んだからである。 とくに多い「グエン」姓は「阮」と書く。「阮」姓は中国では竹林の七賢の代表格である阮籍などが有名だが、特に多い姓ではない。今日のベトナムの建国の父ホー・チミン(胡志明=筆名)も、本名は阮必成(グエン・タット・タイン)であった。今はなき南ベトナム政権の正副大統領が、「グエン・バン・チュー」「グエン・カオ・キ」である時があったが、それぞれ「阮文紹」「阮高祺」と書けた。当時、国際会議に解放戦線の代表としてグエン・チ・ビンという女性がよく出ていたが、「阮氏平」と書く。その個人名は「ビン(平)」であって、女性の場合は姓と名の間に「氏」をはさむのが習慣である。これほどまでに、「グエン」姓が多いのは、かつての王室の姓だからである。ベトナムでも王朝の交替は繰り返されたが、「グエン」についで多い「レ(黎)」姓もかつての王室の姓である。このほか、当時よく聞いた名前を漢字で書くと、「ゴ・ディン・ディエム」は「呉廷」、「ファン・バン・ドン」は「潘文同」、「ボー・グエン・ザップ」は「武元甲」となる。 ベトナムはフランスの植民地になってから漢字を全廃し、ベトナム語はさまざまな補助記号をつけた「クォック・グー(国語)」というローマ字表記(左にその例)で表記されるようになった。「クォック・グー」は、フランス人宣教師が考案したものだが、植民地支配をする側からも、独立思想をひろめようとする側からも、ともに支持されることで普及した。しかし、漢字文化圏から外れてからも、ベトナム語の中の漢語の比率は日本語以上に高い。とはいえ、ベトナム語は本来、中国語とは別系統の言語で、隣のカンボジアのクメール語と同様、アウストロアジア語族に分類される。アウストロアジア語族は語形の変化のない単音節語を基本とする点で中国語に似ているが、本来は声調言語ではない。しかし、ベトナム語は声調のないクメール語とは異なり、はっきりした声調言語である。しかも、中国語の声調が「四声」といって4種類であるのに対し、ベトナム語の声調は6種類もある。ベトナム語は、クメール語と同じアウストロアジア語族の言語を基層とし、それに中国語と同系のタイ系の言語がからまったハイブリッド言語と考える説が有力である。 ここで、ベトナム語が漢字で書かれていたころ、ベトナムの固有語はどのように書かれていたのか、という疑問が生じる。漢語は当然漢字で書かれた。 ベトナムでは漢字は「チュー・ニョー(字儒)」といった。これに対して固有語は「チュー・ノム(字喃)」というベトナム独自の文字で書かれた。「チュー・ノム」は漢字同様、音と意味とを兼ね備えた表語文字である。中国語と言語の性質のよく似たベトナム語の場合、固有語は仮名やハングルのような表音文字で示されるのではなく、ベトナム製の「漢字」で表記されたと考えればよい。「天」という漢語がそのまま漢字で書かれたのに対し、「そら」に当たるベトナム固有語は、「」というチュー・ノムで示された。「チュー・ノム」は、日本の「国字」つまり和製漢字のようなものだが、国字よりはるかに種類が多い。固有語を表音文字ではなく一つ一つ別々の「チュー・ノム」で書き表そうとしたのもベトナム語が中国語に似ているためだが、そのため、文字の種類が日本や朝鮮よりずっと多くなった。そのことが、「クォック・グー」が歓迎されることになった最大の理由である。左にチュー・ノムの例を示す。このほか、正式な文章は、純漢文で書かれていた。 ところで、「チュー・ニョー」とは「儒者の文字」ということである。それを「字儒」と書くことからも分かるように、ベトナム語では修飾語が被修飾語のあとにくる。ベトナム戦争のとき、解放軍は「クォン・ジャイホン」と呼ばれた。これは漢語であるが、漢字で書くと「軍解放」となる。修飾語が被修飾語のあとに来る言語としてはフランス語が有名である。「モンブラン(白い山)ではモンが山、ブランが白、「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」ではムーランが風車、ルージュが赤である。
しかし、フランス語の場合、「グランプリ(大賞)」では逆にグランが大、プリが賞であって、これが必ずしも一貫していない。東南アジアの言語の場合は、ベトナム語に限らず、これがもっと一貫している(ベトナム語には若干の例外があるという教示を読者から頂いた)。カンボジアのクメール語では、寺をワット、都をアンコールといい、「アンコール・ワット」とは「寺の インドネシア語では人をオラン、森をウータンといい、「オラン・ウータン」とは「森の人」ということである。 さらに、インドネシア語と同じアウストロネシア語族に属するハワイ語の例では、カメハメハ大王は幼いころ宮廷の権力争いのため母と引き離されて育てられた。そのため「メハメハ(孤独)」な「カ(人)」だということで、「カ・メハメハ」と呼ばれたのだという。 中国の伝説上の皇帝には、黄帝がいるかと思えば帝尭もいるという具合に「帝」の字が上下している。これは、漢民族が今日の東南アジアの諸民族と同じ系統の民族を同化したことの表れと考えられる。 ベトナムには、千年以上もの間、中国の直接支配を受けた歴史がある。 しかし、固有の言語と文化伝統は失われることはなかった。ベトナム戦争のときには、大国アメリカとの比較で小国のイメージが強かったが、実は人口は約8千万人もあり、タイを千万人以上上回っている東南アジアの大国である。 フランス、アメリカとの戦争の時代をようやく終え、まだまだ貧しいが、たいへんな潜在力を秘めた国である。 戦争やボートピープルの暗いイメージだけでこの国を考えるのは間違いである。 |
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ODA不正野放し わいろ立件 元常務メモ決め手 2008年8月5日 東京新聞朝刊 不透明さが度々指摘されてきた政府開発援助(ODA)をめぐって、汚職事件が摘発された。「パシフィックコンサルタンツインターナショナル」(PCI)から、ベトナム・ホーチミン市幹部への贈賄容疑。東南アジアでは、わいろが「商習慣」ともいわれる。日本側の政府機関も「見て見ぬふり」との指摘もあるが、PCI元常務が残していた手帳が決め手となり、関係者が逮捕された。 逮捕されたPCI元常務高須邦雄容疑者(65)は「メモ魔」(PCI幹部)と呼ばれていた。東京地検特捜部が立件する決め手となったのは、そのメモの押収だった。そこには、いつ、どこで、誰にいくら渡したのかが、詳細に書かれていたとみられる。 ホーチミン市にある東西ハイウエー・水環境業務管理局事務所の一室。高須容疑者は、ここで堂々と米ドルを手渡したとされる。二〇〇三年には、元PCIハノイ事務所長の坂野恒夫容疑者(58)も同行。同局の局長から、受注額の一割程度を要求されていたという。 舞台となったのは、途上国が行うインフラ整備などに、国際協力銀行(JBIC)を通じて資金を貸す円借款事業だった。 発注権限を持つのは現地国の政府。ベトナムなどに駐在してODA事業に携わった企業関係者は「現地の役人へのわいろは常識」と明かす。「特にインフラ整備では、実弾(現金)なしで仕事は取れない」 ODAではまず、現地国が日本に個別プロジェクトを要請する。だが、現地に精通したコンサルやゼネコンが現地国に働き掛けて、プロジェクトを初めから“仕込む”例も多いという。 こうした受注活動について「JBICや国際協力機構、外務省は当然知っているが、見て見ぬふりだ」と関係者は指摘する。だが、今回の贈賄容疑について、JBICは「うちは資金を出して入札手続きや実施状況を監理するだけ。贈収賄は当事者間の問題だ」と突き放す。 借款契約の具体的な中身や事前調査への参加企業についても、JBICは「相手国や受注先の同意がいる」として一切情報開示していない。年間約八千億円(二〇〇六年度)もの公金がつぎ込まれる円借款は、「途上国が事業主体」という建前の下、不透明さがつきまとっている。 収賄側の幹部、立件は難しく ホーチミン市人民委 ベトナム政府関係者によると、担当局長はベトナム公安当局の調べに現金の受け取りは認めつつも、わいろ性を否定している。日本はベトナムにとって最大のODA供与国で、ODAを今後減額されたくないとの政治的配慮などから、収賄容疑で局長が立件される可能性は低いとみられる。 ホーチミン市人民委員会職員は担当局長について「今日も普通に働いている。取材は外務省を通してください」と答えるのみ。しかし、外務省も六月に報道で疑惑が発覚して以降、局長に関する取材を受け付けていない。 ベトナムの首相顧問経験者は「局長を逮捕すれば、ほかに何人も逮捕しなければならなくなる。多額の金は独り占めするのでなく、ホーチミン市の幹部らで分け合っている」と打ち明けた。 |
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